2025年11月18日火曜日

インドの旅ストーリー12

⭐紅茶園

チベット難民自立センターの後は動物園に行った。

雪ヒヨウ、シベリアタイガー、白いベンガル虎、レッサーパンダ等、なかなか見応えがあった。

その後はHAPPY  TALLEY TEA GARDEN (ハッピーバレー茶園)を訪れた。

ここはダージリンで2番目に古い茶園だ。1854年に設立され、長い歴史を刻んでいる。標高は約2,100メートルでvalley(谷)というだけあって、かなりの傾斜の深い谷に茶園が広がっている。


広い茶園は日本と違い線上に並んで植えられていない。ただ隙間なく植えてある感じだ。これは機械を使わない人力中心だからできることと言える。

また、2007年に新しい所有者に変わってから有機栽培に変わったそうだ。

到着してしばらくすると工場のガイドツアーが始まった。稼働中の工場が博物館となっていた。あいにくこの日は日曜日で作業はお休みで見れなかった。

ガイドツアーは(もうこれで終わり?)

というぐらい短かかった。

後は試飲と販売で、これは世界共通だ。

2000メートルを越す高さで、人力による有機栽培の紅茶は柔らかい感じで、香り高く、生産量が少ないからか高価である。

しかし外貨なので感覚が鈍っているせいか、抵抗なく購入した。

(終わり)

インドの旅ストーリー11

⭐チベット難民自立センター

個人の外国旅行に予期せぬことは付き物である。
ダージリン滞在の最後の日、私達はまた前日と同じタクシーを1日ハイヤーして、紅茶園やロープウェイ、動物園を訪れることにした。
先ずアジアでも最も長いものの一つと聞くロープウェイに行ったが、これまた長蛇の列で「2時間待ち」と言われた!
「切符だけ買っといて後で乗りにきては?」と尋ねたが、「いつ来ても2時間待ちです。午前6時ぐらいからみんな並んで切符を買ってます。」
との答えだった。これも12億という多人口のなせる業か?ここの人気度か?よくは分からない。
仕方ないのでそこに広がる素晴らしい山岳風景を眺めて、想像力で乗ったことにした。
運転手は気の毒がってか、「では代わりにチベットの難民キャンプに行きませんか?
そこだけにしか売ってない手芸品や美しい織物で人気があるんですよ」
「え?!ダージリンにチベットの難民キャンプ?!」

と私達は意外な展開に驚いた。
運転手の説明によると、1959年に中国はチベットに侵攻して支配下に置いた。その時にダライ・ラマに続いて、多くのチベット人が自由と平和を求めてヒマラヤ山脈を越え、ネパールやインドへ亡命したそうだ。。
ダージリンは、中国チベット自治区に接するヒマラヤ山脈の 亡命ルートの終着点の一つとなり、難民が住み着き易かったという。
最初は10数人のチベット人が住み着いたが、1964年頃に土地がインドから提供され、難民が自立して生計を立てられるよう、織物や工芸品の制作・販売などを行う職業訓練施設を兼ねた「チベット難民自立センター」が設立されたそうだ。
同じような難民支援センターはインド各地にあるという。 
たまたまこの日は日曜日で、たくさんのお店が閉まっていたが、それでも僧院にお参りしたり、みやげ物店で高度な技術で織られたショールやカーペットなどが並べられていた。売上金は難民センターの運営に回されるということで、寄付のつもりで美しい箸セットを購入した。
お腹もすいたので、そこにある小さいレストランに入った。
チベット伝統料理のスープ麺のトゥクパを注文した。
店の主人は私達がトゥクパを食べてる横で色々と話してくれた。
「ここは親達が難民として逃げてきた時は山だった。親達が苦労して住める場所にしてくれたんだ。でも当時の親達は亡くなってしまい、若者達はここを出ていくし、店もだいぶ減ったよ。ここには彼等の求める人生はないからね、仕方ないよ」
「ダライ・ラマは知ってる?こうやって平穏な暮らしができてるのは、全てダライ・ラマのおかげなんだ!」と、感慨深く話す店主に耳を傾けながら、私達はトゥクパのスープをすすった。

2025年11月15日土曜日

インド旅ストリー10

★日の出とヒマラヤ

ダージリンに来たら逃せない場所として、日の出に照らされるヒマラヤが見える展望スポット、タイガ―ヒル(Tiger Hill)がある。
標高 約2,590 m(ダージリン市街より約300m高い)所にあり、タクシーで行くことにした、というかタクシーしかないのである。または現地ツアーはあるだろうが、個人旅行としてはタクシーが好ましく、価格も手ごろだ。
カスミさんの努力で割安でタクシーが手配できた。
出発したのは朝4時と、日本の私では考えられない出発時間なのだが、そこは外国時間というか、外国では不思議と平気な私である。
気温は5度ぐらいで、寒さに身を縮めながらタクシーに乗り込むと、窓が空いている!
「すみません、寒いので窓を閉めてもらっていいですか」と夫が言うと、「窓を全部閉めると私が眠くなるんですよね~、それと暖房もありませんのでok?」との答えで、運転手の後ろに座った私の前の窓は空いたままで現地まで走った。確かに寒かったが、それより眠さが先に立ちウトウトしているうちに現地に着いた。
ヒルの上は日の出もヒマラヤも見渡せそうだ。しかしもう人、人、人でいっぱいだ!

まだ見えないヒマラヤの位置を憶測で定めてスマホを用意して、日の出を待った。
日の出が少しづつ近付くと、空に浮かんでいた雲らしき物が周囲の空の色の変化と共に、山々の形を現していった。
うすい水色からうすい黄色、そしてうすい桃色から少し濃い桃色へと変化していく。
最後には日の出に輝くヒマラヤの山々、そしてその中で最も高い
カンチェンジュンガ(世界3位の高さ)がひときわ崇高に輝いている。
また少し左に離れた向こうには、エベレストも顔を出している!
こんなスペクタクルな自然の妙に、夫婦で身を置くことができて本当に幸運であった。


















インド旅ストリー9

★トイトレイン


1800年代も終わり頃になると、イギリス統治下のインドのダ―ジリンは避暑地(Hill Station)として、人口も増え交通の改善が必要になった。また、茶葉産業も急拡大し効率的な輸送が急務となつていた。そんな中でヒマラヤ鉄道の建設が計画されたのだった。
歩いたりタクシーに乗ったりしていると、幅のせまいレールが町中の狭い道路の片すみの至る所を走っている。また時には横断もしている。もちろん遮断器はない。
線路は単線で、トレインはそんなに頻繁には走らないので、人が線路の上を歩くのも全く普通のことなのは、驚きとともに微笑ましい。
ダ―ジリンは山岳地帯にある町で急勾配も多く、ヘアピンカーブなども克服するためにループ、ジグザグ(スイッチバック)など、当時としては最先端の世界的に珍しい構造でできている。
正式に開業されたのは1881年だそうだ
そのトレインは車両や機関車が非常に小さく、山岳地形をのんびり走るため、おもちゃの汽車みたいだ とイギリス人が呼んだのが始まりで、「トイトレイン」と呼ばれ、1999年に世界遺産に登録された。
実はこのトイトレインに乗るのが、今回のインド旅行の最大の目的だった。現地滞在されているカスミさんのご協力のおかげで実現できて本当に嬉しい。
「ポ―ポ―」とオモチャのような音の汽鳴らしながら、狭い道路の片すみを走ったり、道路を横切ったりして、蒸気でのんびり走るトイトレイン。
2連の車両は世界各地からの観光旅行者で満席だ。どうも日本人は私達3人だけのようだ。
車窓には白くそびえるヒマラヤの山々が見えたり、みやげ物を売る露店が見えたり、谷に沿って立てられているたくさんのホテルが見えたりで、飽きることは無かった。
イギリス統治時代のダ―ジリンに思いを馳せて、時が流れて行った。












インド旅ストリー8

★ダ―ジリンの歴史
昨日(13日)から北部のダ―ジリンに滞在している。
ホテルの窓からは雪をかぶったヒマラヤの山々が、白く輝いてそびえ立っている。そう、ここはヒマラヤ山脈の足元なのだ。
ここでダ―ジリンの歴史を紐解いてみよう。
1835年、イギリスは避暑地として利用するために、当時あったヒマラヤ国からダージリンを「譲渡」された。しかし実際は半ば強制的に獲得したとみなされてもいる。
それ以来、イギリスの行政官や軍人が夏に暑さを避けるため滞在するようになり、ヨーロッパ式の建物や教会、学校が建てられた。
そしてダ―ジリンは「ヒマラヤの女王(Queen of the Hills)」と呼ばれるようになった。
昨日ランチを食べに行った時に、古いイギリス式レンガ造りの建物の学校があった。植民地時代の名残りだろう。
また、昨日利用した超距離タクシーの運転手さんはクリスチャン(キリスト教徒)で、ダ―ジリンにはクリスチャンが多いそうだ。これもイギリス統治の影響か。
ダ―ジリンと言えば紅茶である、私も好きだ。
どうしてここが紅茶の名産地になったのだろう。

その当時イギリスは中国への依存を減らすため独自の紅茶生産地を探していたという。どこか現代にも見られる国策で面白い。
ダージリンは気候がお茶栽培に適し、後に大規模なプランテーション化へと進み、イギリスは茶の輸出で大きな利益を得ていく。また、多くのネパール系住民が労働者として移住し、今のダージリンの民族構成の基盤が形成されたそうだ。
歴史は流れ1947年にインドが独立すると、ダ―ジリンはインド領となり今に続いている。

2025年11月14日金曜日

インドの旅ストリー 7

今日(11月12日)はいよいよタ―ジ・マハルに行く日だ。
今回の旅の最大の目的の一つで、本当に楽しみである。
昨日のうちにジャイプールから移動して来て、タ―ジ・マハルのすぐ近くに宿を取ったので歩いて行くことができた。
ホテルの前は個人の色々なお店が並び、ウンザリする客引きの声かけを無視してひたすらに歩くこと15分。
いよいよタ―ジ・マハルの壮麗な門が見えてきた。
ボディーチェックやバッグの中まで一応調べるのは、2日前に起きたテロの爆破事件の影響か。
チェックを無事に通過しゆっくりと歩みを進めると、目前に太陽の陽に輝く真っ白なタ―ジ・マハルが姿を現した!
写真では何度も見たことはあるが、その芸術性. 美しさは見る者を圧倒する。
完璧な左右対称、どの角度から見ても全く同じ総大理石作りという贅沢さ、大理石には象嵌細工が施され、花やアラビア文字(コーランの詩句)が美しく描かれている。
庭園もイスラームの「天国の庭」を表す庭園形式で構成されており。中央に伸びる青い池が白い大理石とコントラストをなしている等等、魅力は数え切れない。
この建物の中心、そして左右対称の中央線の通る所に王と王妃のお墓が静かに並んでいた。
ここでこのお二人についてのストリーを紹介したい。

ムガ―ル帝国の第五代皇帝のシャー・ジャハーン王は、王妃ムムターズ・マハルをこよなく愛していた。王妃は側近として政治的助言を与え、戦地にも同行するほどの信頼を得ていた。
ところが、ムムターズ(宮廷の光という意味)は14人目の子を出産中に亡くなつた。
深く悲しんだ皇帝は「この世で最も美しい墓を建て、彼女の思い出を永遠に残す」と誓うのだった。
その結果、誕生したのがタージ・マハルなのだ。 
タージ・マハルは「永遠の愛の象徴」と呼ばれ、世界中で愛の聖地として尊ばれているゆえんである。

2025年11月12日水曜日

インドの旅スト―リー 6

昨日からジャイプールに来ている。
グルガオンから車で約4時間かかった。
グルガオンからジャイプールに伸びる高速道路が約7年前にできたおかげで、渋滞から解放された本来の高速のスピードで走ることができて助かった。
車窓にはどこまでも、どこまでも続く、山が全くない広大な平野が続く景色を堪能できた。しかもその平原のほとんどは農地だった!

調べてみると、インドは国土の約半分が農地でGDPの17‰は占める重要な産業だそうだ。また米や小麦の生産量は世界第2位だそうで、これも全く知らなかったので驚いた。
日本のような耕作放棄地は全く見えない。
また、日本と大きく違う田園風景は農業機械がほとんど見えないということだろう。たまにトラクターが耕作しているのを見かけるだけで、あとは人間が手作業をしているのが見えるだけだった。
ここにも豊富な農業労働力を垣間見ることができた。

もう一つ大きな違いに気がついたのは夫であった。
「どうしてあんなに木が多いのだろう? 日陰があると作物はよく育たないのに、、、」
夫が調べたところによると、農地に低い木が点在するのは主に「アグロフォレストリー」(農林複合経営)と呼ばれる伝統的かつ現代的な土地利用システムだそうだ。
このシステムには、農家の生計向上と環境保全の両面で多くの利点があるそうだ。
  • 多様な林産物の供給源: これらの木は、農家にとって重要な燃料材(薪)、飼料、建設資材、そして換金作物としての木材を提供する。
  • 農業生産性の向上:
    •  木の根が土壌の浸食を防ぎ、落葉が有機物として土壌肥沃度を高める。 
    • 作物や家畜に日陰を提供し、特に暑く乾燥した地域で過酷な気候を和らげるのに役立つ。
    •  強風から農作物を守る。
    • 木材やその他の林産物からの収入が農家の経済的な緩衝材となる
  • 生物多様性の維持: 農地内に木があることで、さまざまな動植物の生息環境が提供され、生物多様性の維持に貢献する。
こんなに利点が多いアグロフォレストリーは政府も支援している。2014年に国家アグロフォレストリー政策を導入し、気候変動の緩和と農業生産性の最大化を目指して、この慣行を積極的に推進しているという。 
とても興味深い農業政策で、頑張ってほしいと思った。

そんなことを調べたり、考えたりしているうちにジャイプールのお城が見え始めた。
(アンベール城)(風の宮殿)
(水の宮殿)