⭐チベット難民自立センター
個人の外国旅行に予期せぬことは付き物である。
ダージリン滞在の最後の日、私達はまた前日と同じタクシーを1日ハイヤーして、紅茶園やロープウェイ、動物園を訪れることにした。
先ずアジアでも最も長いものの一つと聞くロープウェイに行ったが、これまた長蛇の列で「2時間待ち」と言われた!
「切符だけ買っといて後で乗りにきては?」と尋ねたが、「いつ来ても2時間待ちです。午前6時ぐらいからみんな並んで切符を買ってます。」
との答えだった。これも12億という多人口のなせる業か?ここの人気度か?よくは分からない。
仕方ないのでそこに広がる素晴らしい山岳風景を眺めて、想像力で乗ったことにした。
運転手は気の毒がってか、「では代わりにチベットの難民キャンプに行きませんか?
そこだけにしか売ってない手芸品や美しい織物で人気があるんですよ」
「え?!ダージリンにチベットの難民キャンプ?!」
と私達は意外な展開に驚いた。
運転手の説明によると、1959年に中国はチベットに侵攻して支配下に置いた。その時にダライ・ラマに続いて、多くのチベット人が自由と平和を求めてヒマラヤ山脈を越え、ネパールやインドへ亡命したそうだ。。
ダージリンは、中国チベット自治区に接するヒマラヤ山脈の 亡命ルートの終着点の一つとなり、難民が住み着き易かったという。
最初は10数人のチベット人が住み着いたが、1964年頃に土地がインドから提供され、難民が自立して生計を立てられるよう、織物や工芸品の制作・販売などを行う職業訓練施設を兼ねた「チベット難民自立センター」が設立されたそうだ。
同じような難民支援センターはインド各地にあるという。
たまたまこの日は日曜日で、たくさんのお店が閉まっていたが、それでも僧院にお参りしたり、みやげ物店で高度な技術で織られたショールやカーペットなどが並べられていた。売上金は難民センターの運営に回されるということで、寄付のつもりで美しい箸セットを購入した。
お腹もすいたので、そこにある小さいレストランに入った。
チベット伝統料理のスープ麺のトゥクパを注文した。
店の主人は私達がトゥクパを食べてる横で色々と話してくれた。
「ここは親達が難民として逃げてきた時は山だった。親達が苦労して住める場所にしてくれたんだ。でも当時の親達は亡くなってしまい、若者達はここを出ていくし、店もだいぶ減ったよ。ここには彼等の求める人生はないからね、仕方ないよ」
「ダライ・ラマは知ってる?こうやって平穏な暮らしができてるのは、全てダライ・ラマのおかげなんだ!」と、感慨深く話す店主に耳を傾けながら、私達はトゥクパのスープをすすった。