2021年8月1日日曜日

エッセイ(10)~そこには豊かな古語の世界があった

 そこには豊かな古語の世界があった

     

  

   何にしても、新しいドアを開けるのは勇気がいるものである。

私もそれまで随分とドアの前で迷ったのであるが、思い切って「短歌教室」というドアを開けてみた。

先ず講座を見学させていただいたのだが、お話が進む中で古語の語尾の使い方についての説明があった。それを聴いているうちに、何と私はある意外な発見をしたのである。

それは古語と英語の「時制における、ある共通点」であった。

大人を中心に英語を教えている私が、いつも頭を悩ますのは英語の「現在完了形」という時制を教える時である。その「時」の概念は(過去のある時点から、今を含むタイムライン)であるが、残念ながら現代日本語では動詞の変化はなく、意味を明確にするときは「ずっと」、「これまで」等の副詞を添えなければならない。

しかし英語では、「have+過去分詞」で表すので明確である。

ここで例を挙げて説明したい。


①「私は菊陽に住んでいます」→I live in Kikuyo.

②「私は菊陽に住んでいました」→I lived in Kikuyo.

③「私は10年菊陽に住んでいます」→I have lived in Kikuyo for 10 years.


このように、現代日本語では現在形と同じになってしまう。またそのせいもあって、英語で過去のある時点から現時点までのタイムラインを表現する時に現在形で表現してしまうため、変な英語になってしまう。

しかし、何と古語では「~ぬ」「~たり」は、「過去から今を含む時の概念を表現する助詞だ」とのことであった。


とすると、

*「我菊陽に10年住みぬ (住みたり)

と表現すれば、10年前の過去から今も続く時の概念が伝わるのだろうか。何とすっきりしている事か。

現代日本語がいつの頃から、その表現形式を失くして来たのか知らないが、本当に興味深い事実である。

古語の持つリズム性や力強さも英語と似ていると感じることも多い。

古人がもし英語を習ったなら、もっと早く、楽に習得できていたのではないかと思うこの頃である。


田中成美 令和3年 7月







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