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2022年8月28日日曜日

ロンドンの思い出ひとつ

     ロンドンでの思い出ひとつ     

 その時私は、ある地下鉄の駅の前に立っていた。

ロンドンの中心部から30分ぐらい離れた所にある小さな駅で、名前はもはや忘れてしまった。ホームステイ先の家を出た時は曇りだった天気も、駅を出るころにはすっかり本降りになっていた。でもこれはイギリスでは当たり前のことで、1か月間の滞在も終わりに近いその日は、私もすっかり慣れてしまっていた。まだスマホの無かった時代である。傘をさしながらメモや地図を引っ張り出して、(あれ、この通りはいったいどこ?)と、往生していた。

その時である。グレーの乗用車が私の前で、スーッと止まった。

「どこへ行くの?」

運転席の窓に見えたのは、まじめな表情をした、優しそうな初老のイギリス紳士だった。

私がメモを見せると、「あー、ここだったらちょうど通り道だ。良かったら乗せて行くよ」と、同乗をオファーしてくれた。

一瞬たじろいだものの、旅人の直感とでも言おうか、(この人は大丈夫)と咄嗟に判断した私は、雨よけのためにも、さっさと車に乗り込んでいた。

その紳士はさっそく質問をしてきた。

「そこに何があるの?普通の住宅地だけど」

「日本の著名な作家、夏目漱石がイギリスに留学していた時に、一年ほど住んでいたマンションがあるんです」

「ナツメ?知らないな」

それから始まって、日本済状況や食べ物のことなどを話し込んでいるうちに、そのマンションに着いた。車を降りる時にその紳士の言った言葉は今でも忘れられない。

「悪いが、あなたをここで待って、また連れて帰るほど私は暇じゃないので、これで失礼するよ」

何とも率直でユーモラスなこの台詞を味わいながら、、丁寧にお礼を言ってその車を見送った。

目の前には夏目漱石が1901年から約1年間暮らした、立派なレンガ造りのビクトリア朝の建物があった。漱石の部屋は二階だったそうだが、その時も住人がいて中には入れなかった。

あの建物に今は、「ブループラーク」といって、イギリス国内で著名な人物が暮らしていた場所や、歴史的な出来事のあった場所の外壁に飾られるプレートが掛けてあるそうだ。このプレートに名前が載せられているのは、日本人では夏目漱石ただ一人だけだという。

世界的に認められたこの作家が、熊本にも四年余り住んでいたことにもっと誇りを持ちたいと思う、思い出である。

     (漱石が住んでいた部屋の壁に飾られているプラーク)


 

 

 

2022年7月18日月曜日

セントアンドリュースの思い出

 今年のThe Open(全英オープン)は第150回の記念ということで、ゴルフの聖地とされる、セントアンドリュース オールドコースで開かれている。

連日の熱戦を見ていると、テレビに映るオールドコースの風景に、懐かしい旅の思い出が鮮やかに蘇ることがある。

特に静かなうす水色の海の風景がなぜか印象に残っている。また、長い歴史のたたずまい溢れる街のようす(建物の間の狭い道路を歩いたなー)、アクセントの強い英語・・・といった感じで、30年前の旅のシーンが静かな興奮を持って、頭の中で再現されるのである。

あれからもう30年にもなるのか・・・

その時私は、幸運にも菊陽町の「人材育成基金」を与えられ、ヘイスティングズにある英語スクールで「外国人英語講師のためのブラッシュアップコース」を、2週間の予定で受講しに行くことができたのである。

せっかくなのでその前に、マンチェスターにいるイギリス人の友人宅に数日間ホームステイをして、その後スコットランドまで足を延ばすことにした。一人の友人が日本から同行した。

マンチェスターには5泊ぐらい、スコットランドでは4泊ぐらいしたと思う。

私はその当時はまだゴルフをしていなかったが、夫から話を聞いていたので、セントアンドリュースには是非とも行ってみたかったのだ。そこで友人とは別行動で、私だけで「日帰りバス旅行」をしたのだった。

目指すセントアンドリュース オールドコースには入れなかったが、そのすぐ横にある「ブリティッシュゴルフミュージアム(英国ゴルフ博物館)」には入ることができた。

中には600年にも及ぶゴルフの歴史をパネルや写真、映像ともに紹介してあり、全英オープン最初のチャンピオンベルトや勝者に贈られる優勝トロフィー、クラレットジャグなどの所蔵品が所狭しと並べてあった。ゴルフが世界中へ広まっていった様子やセントアンドリュースの町に与えた影響、全英オープンの歴史をたどる展示なども興味深いものがあった。

全体的に重厚で静かな雰囲気で、とても素敵な空間が広がっていた。

またどうしてか分からなかったが、テレビにはボビージョーンズがオールドコースでプレイしているビデオが流れていた。

後で調べてみると、1930年〈28歳)の時に、彼は多難の末に、何とアマでここで優勝したそうだ!

この年はグランドスラムも達成しているそうで、オールドコースとしても記念すべき年なのに違いない。

こんな特別な体験の一日旅行だったのに、今の私の手元にはミュージアムで購入したタオルが残るのみである。写真もどこに行ったか分からない。きっとCDに焼き付けて、家のどこかに埋もれているのだろう。

探したい気もするが、それよりも元気なうちにもう一度、セントアンドリュースに行って、それもオールドコースでゴルフをしたい。夫や弟や友人達と楽しくゴルフをしたい・・そのことの実現にエネルギーを使いたいと思う今である。

       ( ミュージアムで買ってきたゴルフタオル)

ゴルフミュージアムで買った、ゴルフタオル

ミュージアムの中の様子




2021年12月24日金曜日

「Be yourself」 と「おのがじし」

 「おのがじし」と ”Be yourself” (ビー ユアセルフ)

             (2021年、すぎなみ12月号に寄稿)


私にも自分を励ましてくれる言葉が幾つかある。


その一つは「ビー ユアセルフ」(Be yourself,自分自身であれ)である。「自分の考え、価値観を大事に」ということで、これまで迷った時はこの英語に大いに励まされてきた。

迷う背景には日本文化独特の、全体の和、集団の中の自分、自分を前に出さない、そんな「全体」が「個」よりも前に置かれることが多いからだろう

か。

ところが先日、短歌の勉強をしていて「おのがじし」という古語に出合った。これは「各自」、「それぞれ」という意味で、源氏物語に使われているそうだ。現代語で言えば「個性」であるという。

こんな言葉が古来よりあったとは、本当に新しい発見であった。


よく「個性を大事に」とは言われるが、実社会でそれを前面に出すのは今の日本では難しい、そう実感しているのは私だけではないだろう。


英語圏の「人と違う考えを持つこと」、「自分の意見を持つこと」、そんな「個」に根差した事が尊重される文化とは大いに異なる。

そう言えば、英語では主語が必ずあるが、日本語には通常はない、その理由についても同じ様な事が言えると聞く。


もちろん、これはどちらが良くて、どちらが悪いかではなく、ただ違うのであるから、それを受け入れなくてはならない。


でも、短歌の世界では本来、自分の「個性」を見つけて育てていくことが要求されており、特に現代短歌では勝負どころだそうである。「おのがじし」が大事なのだ。

そういう世界は、英語の影響からか、全体を自分の前に置くのが苦手な私にとって、大いに勇気付けられる気がする。


個性を大事にしてくれる短歌の世界で、想像力を駆使しながら、自分の「おのがじし」を少しずつ創り上げて行きたいと願う昨今である。

   

ひと口に稲穂と言えど立ち様(ざま)は

              向きも重さもおのがじしなり 


2021年8月1日日曜日

エッセイ(10)~そこには豊かな古語の世界があった

 そこには豊かな古語の世界があった

     

  

   何にしても、新しいドアを開けるのは勇気がいるものである。

私もそれまで随分とドアの前で迷ったのであるが、思い切って「短歌教室」というドアを開けてみた。

先ず講座を見学させていただいたのだが、お話が進む中で古語の語尾の使い方についての説明があった。それを聴いているうちに、何と私はある意外な発見をしたのである。

それは古語と英語の「時制における、ある共通点」であった。

大人を中心に英語を教えている私が、いつも頭を悩ますのは英語の「現在完了形」という時制を教える時である。その「時」の概念は(過去のある時点から、今を含むタイムライン)であるが、残念ながら現代日本語では動詞の変化はなく、意味を明確にするときは「ずっと」、「これまで」等の副詞を添えなければならない。

しかし英語では、「have+過去分詞」で表すので明確である。

ここで例を挙げて説明したい。


①「私は菊陽に住んでいます」→I live in Kikuyo.

②「私は菊陽に住んでいました」→I lived in Kikuyo.

③「私は10年菊陽に住んでいます」→I have lived in Kikuyo for 10 years.


このように、現代日本語では現在形と同じになってしまう。またそのせいもあって、英語で過去のある時点から現時点までのタイムラインを表現する時に現在形で表現してしまうため、変な英語になってしまう。

しかし、何と古語では「~ぬ」「~たり」は、「過去から今を含む時の概念を表現する助詞だ」とのことであった。


とすると、

*「我菊陽に10年住みぬ (住みたり)

と表現すれば、10年前の過去から今も続く時の概念が伝わるのだろうか。何とすっきりしている事か。

現代日本語がいつの頃から、その表現形式を失くして来たのか知らないが、本当に興味深い事実である。

古語の持つリズム性や力強さも英語と似ていると感じることも多い。

古人がもし英語を習ったなら、もっと早く、楽に習得できていたのではないかと思うこの頃である。


田中成美 令和3年 7月