ロンドンでの思い出ひとつ
田中 成美
その時私は、ある地下鉄の駅の前に立っていた。
ロンドンの中心部から三十分ぐらい離れた所にある小さな駅で、名前はもはや忘れてしまった。
ホームステイ先の家を出た時は曇りだった天気も、駅を出るころにはすっかり本降りになっていた。でもこれはイギリスでは当たり前のことで、1か月間の滞在も終わりに近いその日は、私もすっかり慣れてしまっていた。
まだスマホの無かった時代である。傘をさしながらメモや地図を引っ張り出して、(あれ、この通りはいったいどこ?)と、往生していた。
その時である。グレーの乗用車が私の前で、スーッと止まった。
「どこへ行くの?」
運転席の窓に見えたのは、まじめな表情をした、優しそうな初老のイギリス紳士だった。
私がメモを見せると、「あー、ここだったらちょうど通り道だ。良かったら乗せて行くよ」と、何と同乗をオファーしてくれたのだ。
一瞬たじろいだものの、旅人の直感とでも言おうか、(この人は大丈夫)と咄嗟に判断した私は、雨よけのためもあってか、さっさと車に乗り込んでいた。
その紳士はさっそく質問をしてきた。
「そこに何があるの?普通の住宅地だけど」
「日本の著名な作家、夏目漱石がイギリスに留学していた時に、一年ほど住んでいた下宿があるんです」
「ナツメ?知らないな」
それから始まって、日本の経済状況や食べ物のことなどを話
し込んでいるうちに、目的地に着いた。車を降りる時にその
紳士は言った。
「悪いが、あなたをここで待って、また連れて帰るほど私は 暇じゃないので、これで失礼するよ」
日本語では言われたことのない表現に、戸惑いとユーモアを
感じながら、丁寧にお礼を言ってその車を見送った。
空を見上げると、雨も上がり青空も少し顔をのぞかせていた。
雨の日によく思い出す、ロンドンでの旅のワンシーンである。
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