2022年9月25日日曜日

エッセイ 「ロンドンでの思い出ひとつ」

 

ロンドンでの思い出ひとつ  

 田中 成美

 

 その時私は、ある地下鉄の駅の前に立っていた。

ロンドンの中心部から三十分ぐらい離れた所にある小さな駅で、名前はもはや忘れてしまった。

ホームステイ先の家を出た時は曇りだった天気も、駅を出るころにはすっかり本降りになっていた。でもこれはイギリスでは当たり前のことで、1か月間の滞在も終わりに近いその日は、私もすっかり慣れてしまっていた。

まだスマホの無かった時代である。傘をさしながらメモや地図を引っ張り出して、(あれ、この通りはいったいどこ?)と、往生していた。

その時である。グレーの乗用車が私の前で、スーッと止まった。

「どこへ行くの?」

運転席の窓に見えたのは、まじめな表情をした、優しそうな初老のイギリス紳士だった。

私がメモを見せると、「あー、ここだったらちょうど通り道だ。良かったら乗せて行くよ」と、何と同乗をオファーしてくれたのだ。

一瞬たじろいだものの、旅人の直感とでも言おうか、(この人は大丈夫)と咄嗟に判断した私は、雨よけのためもあってか、さっさと車に乗り込んでいた。

その紳士はさっそく質問をしてきた。

「そこに何があるの?普通の住宅地だけど」

「日本の著名な作家、夏目漱石がイギリスに留学していた時に、一年ほど住んでいた下宿があるんです」

「ナツメ?知らないな」

それから始まって、日本の経済状況や食べ物のことなどを話

し込んでいるうちに、目的地に着いた。車を降りる時にその

紳士は言った。

「悪いが、あなたをここで待って、また連れて帰るほど私は    暇じゃないので、これで失礼するよ」

日本語では言われたことのない表現に、戸惑いとユーモアを   

感じながら、丁寧にお礼を言ってその車を見送った。

空を見上げると、雨も上がり青空も少し顔をのぞかせていた。

雨の日によく思い出す、ロンドンでの旅のワンシーンである。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿

どうぞお気軽にご感想なり、ご意見なりを
お聞かせくださいませ。